昭和41年09月07日 朝の御理解



 私は思うのですが、見識を持つよりも、力を持たなければならないということ。これはあらゆる社会にそれを感じます。私共も信心の上にも、それは感じるんですけれども、結局はやはり、力のある者には勝ちません。まあ言うなら、本部に御用頂いておられる偉い先生方、教官を初め、専掌、いわゆる重役級の先生方。さまざまなそれぞれの専掌といったような役に、重い役に就かれる。やはり、全教の上にも名前も出る。言わばそうした肩書きもできるわけ。
 けれども、同時にまた見識もつけられる、わけなんですけれど。本当に自分も助かり、人も助かりと、いうことのためには、やはり力を受けなければならん。ですから、私はまず、まずじゃない、私はその両方を、どちらをとるかと言われるなら、やはり、私は力を頂くと。まあ例え、分かりやすく言うなら最近、テレビであの源義経というのがあっておりましたですね。
 やはり侍としての力量というものが、侍同士では、当然必要なんですけれども、やはり見識は、その言わば、公家方が持っております、ね。まあ例えて言うならば、義経なら義経にその公家さん達は、まあ言うなら言葉遣いでも、呼び捨てのような使い方をいたします、ね。けれどもいよいよ、とぐ時には結局、その公家さん達の侍大将たちに、機嫌をとらなければならない、ね。
 言うならば設えなければならん。結局は力のある者が勝ちなんだ。ですから私はこの政治の上にもそんなことを思うんですけども、例えば源頼朝はあの武家政治の起こりはあの源頼朝と言われていますが。その侍がですね、政治に顔を出すようになるとよくないようですね。これはあの東条英機さんが総理大臣になられたりして敗戦になったようなもんですよ。やっぱりあの力は力、政治力は政治力。別でなからなきゃいけん。
 これは教団の上のこともそれが言えるね。本当にお徳を受けられる、本当に力を受けられた人達は本部辺りにはあんまり顔を出されないようですね。本当に言わば最高の栄誉というかね、教官ともなりゃあお道の総理大臣ですから。けれどもまあ概してその教会に生き生きとしたごひれいがたっておる所は少ないですね。これは専掌の先生方の場合でもそんなこと言うては(?)ませんけどもそういう感じがいたしますですね。
 何とはなしやっぱり偉い先生ですからそれはあの人は集まるでしょうけれども、本当に助かっておるというのは少ない。名もないはぁあそこにはああいう教会がある。沢山な例えば参拝がある。言わばころっとしておると、本部に参っておる。はぁどこのご信者さんじゃろうかと言いよると、どこどこの教会と。言わば名も知られないような教会が多いです。これはあの国の祀りごとの上においても、その力とそのひとつの、だから結局力のない者に神様は見識を与えられるといったような感じがいたしますね。
 だから神様がなら、見識が必要か、力が必要かともし仰るなら、私共はもう見識はいりませんから、どうぞ力を下さいと、こう願いたい気がいたしますですね。私はもうどうでもそう思います。例えて言うならば教師の資格もいらん。別にどうということはいらん。わざわざきらびやかな装束を着る資格などもなくてもいいんだ。問題は力が頂き、いや問題は、私、または自他共にです、人が助かることさえできればよいというその力なんだ。これは銘々の家庭においてもそうです、ね。
 見識ばっかりで、言わば私が大将だと言うておってもです、やはり力がない、ければ本当の尊敬を集めることはできません。教会においても言える。椛目は私はだからそのそういうふうにです、(まぐれ参り?)も見識を持った教会と力をもった教会があるなら、どうでも私は見識はいらんから力をもった教会になりたいと私は思うです、ね。言うなら教会の中にもそれがあるんです。見識なんかどうでもいいけん、本当に力のある信者にならにゃいかんと私は思うです、ね。
 まあ例えて言うならば総代なら総代、総代としての見識というものを、まあ与えられる。ね、例え平信者でもです誰でも知らんで、誰もまあそう言わばちやほやされなくてもです、ね、本当に力をもった私は信者にならないかんと、ね。例えばならそのお広前にもありゃあ社会にもある、ね。例えばなら教団全体のことの上にもそれがある。ならこのお広前にもある家庭にもある。ならそのもっと(?)で言うなら、総代なら総代の中にもある。見識をもった総代、力をもった総代。どっちがいいかと、ね。
 やっぱりその、実際の上においてです、ね、公家さんもありゃあ、侍も必要なんです。けどもどちらをとるかとも、皆さんが言われるなら、私は公家さんの方をとるという人もあるかもしれん。侍の、言わば力の、侍の方になりたいという人もあるかもしれんけれども、私の生き方で言うならば、私、侍の方をとるです。やはりあの力を受けなければなりません。私はそう思うんです。
 例えばなら教官を何代も続けてきたと、お道ではいわれる先生でもです、その人のお広前では人が助かっていないとするならね、なるほど教官としての全教に叱咤するだけの、言わば力があり、力と言うとそういう見識その見識をもってそれを鞘をふることができてもですね、力のなしにはつまらん。だから(  ?  )まあこれにこしたことはないのでございますけれど、まずどちらをとるかと言われるなら私、力を。
 そら見識をもってすればできるわけなんです、ね。例えばならご本部ならご本部の方から、ご本部からの特使なら特使として降りて来られれば、いわゆるそれは金光様並に扱う。けども実際その人に力がなかったら、それは見識だけであってから、自分自身は本当の助かりはなか。それは下にも置かれないような、まあ待遇を受けるかもしれませんけれど、力なしに受けたところでですね、私はそういう扱いを受けんでいよいから、または見識は必要、私はいらんから、私が欲しいのは力である。
 私はどうでも椛目の一つの、濃い特色とでも申しますかね、ならばです、力を頂いた人達の、言わば集まりでありたい。それが例えば、いろいろな、まあ例えば椛目が教会になります、ね。そしたら様々な会合なら会合んところに椛目から何々会長なんていうのは出らんでもいい。そういう見識を持つ必要はない。問題は銘々の心の奥底にじっと自分の力を楽しんでおれれる人達の私は集まりでいい。
 何々会長は椛目の教会から出ちゃる。といったようなことはさほどに私は問題にしない。銘々が本当に力を受けておるということであると、これはまあ、また反対のところもありますもんね。非常に地位や、教会でもです、地位や名誉やというふうに、その面子を重んじられる、言われるところもありますよ。そこはまあそこの先生の生き方なんですけれども。私は、もう本部に顔が出なくてもかまわん、ね。
 その地方で本当にその地方の人達が本当に助かっていく、力をもったお広前にならなきゃいけない。必ず公家さんがいくらいばっとってもですさあいよいよ、例えば源氏か平家かという、そら源氏が勢力をもっておる時には源氏に設えなければならないでしょう。平家が勢力を得てくると、平家の方へ合わせて設えなければならないでしょう。
 常日頃は、ね、もちろん侍達はというような侍達の(?)でもするだけの見識を与えられておっても、いよいよん時には右往左往しなければならんでしょうが、ね。だからそれをまた厳密に言うとです、お広前にもそれがあると、ね。見識だけを与えられておる人、力を与えられておる人。力を頂かきゃダメです。家庭の中にもやっぱあるんです。ですから、やはり、その中心にならなくてもよいから、私は力を頂きたいと思う。
 公家さんに、なら、なるよりもです、もういよいよ、武力と申しますかね、侍は侍としての一つの力というものを身に付けていって、ね、力をもって制服する、ね。力をもって、尊敬を集めれれる、ね。見識をもって人に、言わば大事にされるというよりもです、ね、力をもってそういうおかげを頂きたい。でなからなければ、いわゆる本当の私の助かりは人の助かりということにならないと思うですね。
   どうぞ。